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トージシャ Studies ホウレンソウのライブラリーです。当事者研究に関連した本や語録を綴ります。

当事者主権

中西正明 上野千鶴子 著 岩波新書

本の抜き書き。

障害という属性はあるが、障害者という人格はない。同性愛という行為はあるが、同性愛者という人格はない。障害や性的指向を人格と同一化させて考えるのは、近代になってからのことである。「障害は個性だ」という言い方があるが「個性」は人格を表す用語でもある。障害は「属性」のひとつにすぎない。
障害や同性愛者を少数派として排除する社会に対して、人格と同一視してマイノリティ・アイデンティティを引き受けることにより、差別を不可視する世の中の構造を顕在化する効果はあるが、かえって障害者や同性愛者という人格を固定してしまうリスクも負う。
障害は自分の属性の一つだが、自分の人格まで規定するものではない。そして、障害そのものは、この社会で生きるには不便なものであっても不幸なことではない。障害があることと、人生を幸せに送れるかどうかとは関係がない。障害は社会が生み出すもので自分が原因ではない。
障害に不都合な社会のデザインやルールを変更し、公共の設備や機関をアクセス可能にし、必要に応じて必要な介助サービスを利用し、暮らし、仕事、余暇における差別を取り除くことは、その社会の選択しだいでいくらでも可能なのである。

誰も誰をも代表しない。誰も誰にも代表されない。
運営会に出かけ、自分の要求を提案し、それを自分で担っていく。ニーズを持つことと、それを達成することが当事者の責任と自発性のもとで行われる。

代表制・多数決民主主義に対抗する。
代表制民主主義は自分の利益やニーズは自分で決めるという「当事者主義」の考え方にはなじまない。
公共性や制度は「最後のひとり」「もっとも大きなニーズを持った人」に合わせる必要がある。
現実の社会は「平均」「標準」に合わせて設計されている。
実際には「平均」「標準」に合う人などどこにもいないから、ほとんどの人は「平均」「標準」と自分を比べてストレスに苦しむことになる。

制度設計の基準を、平均ではなく「最後のひとり」に合わせるために、多数決を絶対視しない。そういう合意形成が可能なラディカルな民主主義を目指す。

「当事者の、当事者による、当事者のための運動」とは
障害を持った本人だけでなく、親・家族・対応する専門家たちもまた、その当事者性を活かして、自分たちの中にある差別性、優越感、特権性を受け止め、また自分が背負ってきた様々な問題の当事者として自分自身と向き合うこと。
自分自身も、差別の加害者であり、被害者であるという当事者性において、差別の実態を明らかにして、平等を達成するために克服する課題、制度の欠陥、歴史認識の再評価が双方から行う必要がある。

女性学は当事者学の原型、女性学が登場するまでの女性論とは、女とはこういうものだ、女とはこうあってほしい、女はこうあるべきだ、という男につごうのよい言説に満ちあふれていた。「女は謎だ」と言われても、女にとって自分自身が謎だということはおかしい。社会の主導権を握っている男からあてがわれた指定席に、おとなしく納まっている限りは男のおこぼれをあずかれる点で、女も障害者と変わらなかった。
女性運動は、男がつくったこの社会の標準に自分を合わせて、男並みの「一人前」になることをめざす代わりに、女が女のままでどこが悪い、と社会のルール変更のほうを要求してきた。