ブックカフェBlauw frasca

トージシャ Studies ホウレンソウのライブラリーです。当事者研究に関連した本や語録を綴ります。

妬まない生き方

アルボムッレ・スマナサーラ 著
河出書房新社

「嫉妬」

精神的な健康、身体の健康が壊れます。
実年齢より老けて見えます。
周りの人の嫌われます。
自分の能力がどんどん低下します。
人の前に出て活動することが億劫になります。

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「自分は特別な存在ではなく、一つの生命にすぎない」ということ。それを喜ぶ。

うれしい気持ちを何度も思い出す。
 その嬉しかったモノや事ではなく、楽しかった「気持ち」を思い浮かべる。喜ぶ脳を鍛えると、喜びを感じるモジュール(仕組み・神経科路)が強くなってくる。
否定的になる時でも、例えば「疲れた」ではなく、「よくがんばった」と自分を褒る。


他者の気持ちを感じること。
 周りの人々の成功を自分のことのように喜びとして感じようとする。
相手が落ち込んでいるときは、共感してはいけない。自分もその感情にのみこまれてしまう。そうではなく、相手の心を動かすことです。
人を喜ばせることができたら、自分も喜びを感じることもできる。
喜びの目で物事を見る。
そもそも生物は喜びを目指して動いている。苦しみを目指して生きている生命はいない。

ユング―魂の現実性 (現代思想の冒険者たち)

河合 俊雄 著

個人的経験を超えた、人類に普遍的な無意識とは?
 「魂」の根源的(ラディカル)な自己実現の物語。

 「魂」はユングの思想を語る上で最も重要なキーワードだが、単に個人が所有している自分の心、を意味するのではない。むしろ魂の中に自分が住んでいるのであって、魂とはその中に自身が住んでいるところの世界のようなものである。しかし、魂は器みたいなものとして考えてはならず、むしろ魂のファンタジックな働きによって「現実性(リアリティー)」が生み出される。だから神聖なもの・異常なもの・合理的でないものも、魂が生み出したものである限り、ユングはあくまで「現実的(リアル)」なものとして受けとめていく。心的な現実性が、われわれに直接経験できる唯一の現実なのである。

べてるの家の「非」援助論-そのままでいいと思えるための25章-

浦河べてるの家著 医学書院

昇っていく生き方はもうやめた。リハビリなんて諦めた。苦労と出会うために「商売」を。悩みをとり戻すために「経験」を。昆布と病気を元手に稼ぎまくるべてるの家の「弱さ」と「語り」をキーワードにした右肩下がりの援助論。

ケアの社会学-当事者主権の福祉社会へ-

上野千鶴子著 太田出版

超高齢社会における共助の思想と実践とは何か? これまでもっぱら「ケアする側」の立場から語られてきた介護の問題を「ケアされる側」の立場から捉え返し、介護現場における「当事者主権」とは何かを明らかにする。

当事者主権

中西正明 上野千鶴子 著 岩波新書

本の抜き書き。

障害という属性はあるが、障害者という人格はない。同性愛という行為はあるが、同性愛者という人格はない。障害や性的指向を人格と同一化させて考えるのは、近代になってからのことである。「障害は個性だ」という言い方があるが「個性」は人格を表す用語でもある。障害は「属性」のひとつにすぎない。
障害や同性愛者を少数派として排除する社会に対して、人格と同一視してマイノリティ・アイデンティティを引き受けることにより、差別を不可視する世の中の構造を顕在化する効果はあるが、かえって障害者や同性愛者という人格を固定してしまうリスクも負う。
障害は自分の属性の一つだが、自分の人格まで規定するものではない。そして、障害そのものは、この社会で生きるには不便なものであっても不幸なことではない。障害があることと、人生を幸せに送れるかどうかとは関係がない。障害は社会が生み出すもので自分が原因ではない。
障害に不都合な社会のデザインやルールを変更し、公共の設備や機関をアクセス可能にし、必要に応じて必要な介助サービスを利用し、暮らし、仕事、余暇における差別を取り除くことは、その社会の選択しだいでいくらでも可能なのである。

誰も誰をも代表しない。誰も誰にも代表されない。
運営会に出かけ、自分の要求を提案し、それを自分で担っていく。ニーズを持つことと、それを達成することが当事者の責任と自発性のもとで行われる。

代表制・多数決民主主義に対抗する。
代表制民主主義は自分の利益やニーズは自分で決めるという「当事者主義」の考え方にはなじまない。
公共性や制度は「最後のひとり」「もっとも大きなニーズを持った人」に合わせる必要がある。
現実の社会は「平均」「標準」に合わせて設計されている。
実際には「平均」「標準」に合う人などどこにもいないから、ほとんどの人は「平均」「標準」と自分を比べてストレスに苦しむことになる。

制度設計の基準を、平均ではなく「最後のひとり」に合わせるために、多数決を絶対視しない。そういう合意形成が可能なラディカルな民主主義を目指す。

「当事者の、当事者による、当事者のための運動」とは
障害を持った本人だけでなく、親・家族・対応する専門家たちもまた、その当事者性を活かして、自分たちの中にある差別性、優越感、特権性を受け止め、また自分が背負ってきた様々な問題の当事者として自分自身と向き合うこと。
自分自身も、差別の加害者であり、被害者であるという当事者性において、差別の実態を明らかにして、平等を達成するために克服する課題、制度の欠陥、歴史認識の再評価が双方から行う必要がある。

女性学は当事者学の原型、女性学が登場するまでの女性論とは、女とはこういうものだ、女とはこうあってほしい、女はこうあるべきだ、という男につごうのよい言説に満ちあふれていた。「女は謎だ」と言われても、女にとって自分自身が謎だということはおかしい。社会の主導権を握っている男からあてがわれた指定席に、おとなしく納まっている限りは男のおこぼれをあずかれる点で、女も障害者と変わらなかった。
女性運動は、男がつくったこの社会の標準に自分を合わせて、男並みの「一人前」になることをめざす代わりに、女が女のままでどこが悪い、と社会のルール変更のほうを要求してきた。

食べ過ぎてしまう女たち「愛」の依存症

ジェニーン ロス 講談社

 

1996年に刊行された本。「愛」の概念はキリスト教文化圏と日本人では感覚が違うと思うんだよね。

私はこの本に出てくるような男性との付きあいうというのは求めないけど、マットみたいな人とこんな関係を作ることには憧れるな。

現在を生きるためには過去を通り抜けなければならない。

感情は、今の置かれている状況に何も関係ねがないという理由だけでは消えたりはしない。その感情に注目し、名付けたときにだけ、消える。

キャッチ&バイバイ だよね。

自己の一体性

ダイエットをやめて体の求めるままに食べる。

子供のころに起こったことに対しては責められるべきではありませんが、大人としての自分の苦痛にどう対処するかについては責任を持っています。

ダイエットは選択の余地を狭め、依存を余儀なくさせる。

ダイエット中の怒りと屈辱はいつも自分に向けられます。

家族的、文化的抑圧システムの犠牲者である子供(よい子でなかった自分を責める子供)に戻してしまう。

摂食障害から解放されて自由になるということは、ひとつの過程であり、自分を犠牲者と限定するのをやめられるようになること。

否認、混乱、悲嘆、そして受け入れ

自分の思ったとおりの真実を述べ、自分を裏切らない。

人の幸福に責任を感じるのをやめて、その人が作り出したとも言える傷から守ろうとするのもやめる。その人の苦痛について自分を責めることから離れることによって、自分のことについてその人を責めるのをやめる。

 

 

 

 

 

 

 

禅が教える「大人」になるための8つの修行

ネルケ無方 著 祥伝社

 ネルケさん大好き!

こういう考えの人に憧れる。

筋が通っていて、強くてまっすぐな自分軸を持っていて、言葉と行動が伴っている人。

そして私はー

思考は支離滅裂で、弱くて頼りなくて、自分軸がなくて、言葉と行動が伴っていないー

と思っている。

こうして書いていると気がつくことがある。

自分を卑下したりイジメると快感を感じる私がいる、ということ。

これこそが「トージシャ」になるのを妨げているモノなんだと気がつかないといけない。

これも「名付け→承認→リリース」しなきゃね。キャッチ&バイバイだよ。